富士の源水物語

「家康公の水」

   1600年(慶長5年)9月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、その三年後、1603年の正月を京の伏見で迎えたが、

二月十二日に朝廷より征夷大将軍の宣下を賜ったのを機に関東に下り鷹狩を楽しんでいた。

  猟場は、江戸から西へ二十キロほどの武蔵野の原野が多かったため、駿府からこの地へ出向く際、

東海道から北上し、現在の道志村を通って猟場へ向かっていた。

  その道中、山中湖の北側の河原でお昼の休憩を取ったが、この河原は水が流れていない水無し川であった。

初夏の季節でとても暑い日であったために、家康一行は河原で休みながら、お供に近くの民家に井戸水をもらいに行かせた。

その際、なぜこの川には水が無いのか聞いてくるようにと事付けした。 

  お供たちが抱えてきた水桶の水を毒見させた後、家康も一気に水を飲み、あまりにも冷たくて旨いその井戸水に感動しながら、

水が流れていない理由をお供に聞いた。

  するとお供は、この川底は、本来ずっと深いところにあったのだが、度重なる富士山の噴火物が幾重にも堆積し河原を作ったので、

川底は堅い網目のようになっており、水は川底を浸み込んで元の谷底を流れていて、よほどの大雨でもない限り、

表面を水が流れることは無いのだそうです。と答えた。

家康が、この地域の冷たくて旨い井戸水を「霊峰富士からの賜りものだな」とつぶやくと、お供たちもその水を飲みながら、

いやぁ、こんなにうまい水はこれまで飲んだことが無いと口々に話した。 

  その後家康は、駿府から鷹狩に出向く際は、東海道から道志村を抜けるこの道を頻繁に行き来してその名水を嗜んで飲み、

また、この水を大量に汲んでは鷹狩に持参した。  その頃から、鷹狩で大変な運動量をこなしていた事も幸いしたのだろう、

それまで、太り過ぎから血圧でも高かったのか、頻繁にめまいや頭痛を訴えていた家康が、

適度に痩せて健康そのものの身体に変わっていったのだった。

  家康に井戸水を提供していた地区の民たちは、その話を聞いて、誠にありがたい、何も誇れるものがない村だが、

家康様が、ここの井戸水で健康体になったとほめてくださった。とありがたがり、

この辺りの地下水を「家康公の水」と名付けて大切にしてきたという事であった。